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嫌な夢を見た。
真っ暗な闇の中、フリングス少将が私に背を向けて、ただただ立っていた。
そんな彼を見かけた私は声をかけた、つもりだった。フリングス少将、と紡いだ口は、しかし言葉になって私の口からは出てこなかった。
何度やっても、私の口からはひゅ、と息を出す音しか出ない。
ふいに、フリングス少将が暗闇の中を進んでいった。
慌てた私は、必死で彼の名前を叫んでいる。けれど私のその声は、彼には届いていなかった。
段々遠ざかっていく彼の背中。
追いかけようと足を動かすけれど、それも虚しく、彼は私を置いて先に一人で進んでいってしまう。
手を伸ばしても、貴方には届かなかった。
私は声を枯らしてでも、叫んだ。
「行かないで!!!フリングス少将!!!」
お願い、行かないで。
「フリングス少将!!!!」
彼は、もういなかった。
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「―――中佐」
ハッと我に返り、慌てて落としていた視線を上げた。急に、視界に怪訝な顔をしているノルドハイム将軍が飛び込む。そうして漸く、自分が置かれていた状況が理解出来た。
「どうかされたか」
「い、いえ。申し訳ございません」
「体調管理は軍人の基礎。疎かにはするな」
「はい」
「して、貴公はいつ昇格を受け入れるのだ。貴公の実力なら少将の地位にいてもおかしくないはず」
ああ、また話が元に戻った。私はノルドハイム将軍のその言葉に、苦笑いをして答えた。
「…私は今のままで十分です」
「解せんな。貴公と言い、カーティス大佐と言い、何故そうも昇格を拒むのだ」
そうして察してしまった。またカーティス大佐が昇格を拒んだ事を。しかし私はともかく、確かに何故カーティス大佐がここまで昇格を拒むのか、私にも分からなかった。
と本人に言えば、「私も何故中佐が昇格を拒むのか分かりませんねぇ」なんて返って来たことがあったが…。
ノルドハイム将軍のそれに私は苦笑で一つ返しただけだった。
「陛下も貴公の少将への昇格を望んでおられると言うのに」
「はい。分かっております…」
「なら―――」
「ノルドハイム将軍!」
なら何故、とノルドハイム将軍が言う前に、一人の一般兵が将軍の背後から声をかけた。
将軍は顔だけを後ろへやり、話を促せた。一般兵は「はっ」と敬礼をした後、「ゼーゼマン参謀長がお呼びです」と続けた。途端、ノルドハイム将軍がまた更に怪訝な顔をした。
「…とにかく。考えておけ」
「…はい」
それだけを言うと、将軍は一般兵と共に会議室に向かった。
彼の背中を見届けた後、私もその場を離れ、上司が待つ執務室に向かおうと後ろを振り返り、そして瞳を瞬いた。
本来なら執務室にいなければならない上司が、執務室とは関係のない場所に向かって行っているのを見かけたからだ。
彼は私に気付くこともなく、そのまま真っ直ぐ自分が向かおうとする場所に行っていた。
ああ、あの時も―――
あの時も、彼は私に気付くこともなく、ただ私から遠ざかっていった。
私は自然と、彼の後ろを追ってしまった。
彼の後を追いかけて、着いた場所。宮殿の少し外れた場所に、そこはあった。
周りより少し突き出た岸辺を見下ろせるこの場所は、穏やかな場所だった。
その最先端に、彼は優雅に立って、海を見下ろしていた。
「フリングス少将」
声をかけると、彼はゆっくりと振り返り、「ああ、さん」と私の声に苦笑いで返した。その顔は疲れ果てた顔をしていて、呼んだ私は失礼ながらも失笑してしまった。
「陛下の元へ行かれていたんですね」
「ええ。まったく、あの人のサボり癖は困りものです」
「ご自分の事を棚に上げてはいけませんね」
彼はふっと笑ってそうですね、と言った。
「それで、さん。私の後をつけて楽しかったですか?」
「…気付いていらっしゃったんですか」
「心配そうにこちらを見られたら誰だって気付きますよ」
迂闊だった。眉を顰めた私を、フリングス少将は微笑した。
「…話は聞きました」
「え?」
「これで5度目でしょう?昇格の話は」
「ああ…」
そう言えばそんなにも話された気がする。曖昧に笑うと、今度は彼が眉を顰めた。形がいい彼の眉は、やはり形を変えてもかっこいい。
だけど次の彼の口から出る言葉は、何となく予想が付く。
きっと何故だ、とか言うのだろう。今までの人達だって、私が昇格の話を受け入れない事を聞きつけたら、必ず何故だと理由を問う。それほど、私の行動が異常だと言いたいのだろうから。
それはそうだろう。普通なら、昇格したいが為に皆血を流して頑張っている。私だって、入りたての頃はそうだった。
だけど今昇格してしまえば、もうフリングス少将の部下ではなくなってしまう。
それが、私にはつらいんです。
貴方の部下でいられる事が、今の私の幸せだから…。
しかし、フリングス少将は意外な言葉を口にした。
「……よかった」
「っえ?」
驚愕して彼の顔を見上げた。
彼と、視線が合った。
「さんが私の側にいなくなると思うと、不安で仕方ありません」
ああ、何てこの人は―――
嬉しくなって、綻んでいく自分の顔が止められない。
「…行かないでください。」
「ええ。私はどこにでも行きません」
彼は安心したように笑った。
「よかった」
それが、私達が交わした、最後の会話だった。
ザザン、と岸辺に波が打ち付けあう音が響くここは、彼がもっとも好む場所だった。
よく執務中にここに来られ、必死こいて探しに来た記憶が昨日のように思い出される。
そうして二人で「陛下の事、言えないじゃないですか」と笑いあって、部下のディラックに探された記憶も、思い出される。
そんな思い出深いこの場所に静かに眠っている彼に、私は話しかけた。
「…私、晴れて少将まで昇格しました」
ザザン、と波が押し寄せあう音が、「そうですか」と言っているようで、不謹慎ながらも笑ってしまった。
「ノルドハイム将軍やマクガヴァン将軍に散々嫌味を言われ、ゼーゼマン参謀長からはいきなりこき使われ、カーティス大佐には相変らずの嫌味が倍になってきて、陛下に至っては遂に堂々とセクハラされそうになりました」
これ以外でもまだまだあるのはあるのだが、それは言ってしまうと流石のフリングス少将も困り果ててしまうだろうから、また後日話す事にする。
だって今日来たのは、これを言う為じゃないから―――
「……私、貴方と同じに……隣に立てるようになりました」
そう、私も遂に将軍の地位に立った。フリングス少将と同じ部隊の将軍となった。
「貴方が見ていた景色、私にも見えるようになれたんです」
なのに…
「なのに、私は一人なんですね」
貴方と同じ景色を見ているのに、私は一人なんです。
貴方もそうだったんですか?
「一人は……一人じゃ淋しい」
ねぇ、どうして貴方は私を一人にしたんですか?
行かないで、と言った貴方は、どうして消えてしまったんですか?
「…わた、し…まだ貴方の名前……呼んでないです」
もう、つらいんです。
家に帰っても、広い部屋に一人でいるのが、ついらいんです。
一人で貴方が率いていた部隊を一人で率いるのも、ついらいんです。
貴方なら、こんな私を見て、どう思いますか?
「…アスラン、と呼んでみたかったんです」
だけど貴方はもういないの。
「私を一人にしないで…アスランッ!」
波の音が、「ごめんなさい」と言っているようで、涙は余計溢れた。
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(貴方なしじゃ私の全ては幻なの)
Witten by Yukino Enka.
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