バイバイ

空を仰ぐと、ムカつくほど青空で。


辺りを見回すと、ムカつくほど人がいて。





でも彼はいない。








バイバイ












温かい春の中、部活も無事終わり、帰りの支度を急いでしてテニスコートまで向かう。
靴を履き替えている時、ありがとうございました!と声が聞こえ、慌てて走った。
ぞろぞろと一年生や同級生、三年の先輩達が帰ってくる中、私はフェンス越しから彼を探す。
彼だけ制服を着ている所為か、すぐに見つかった。私は思い切り手を振る。
彼も私を見つけて、隣にいた赤澤君と一言交わした後、私の元まで走ってきてくれた。

「はじめ!」
。今日は早いですね」
「うん。部長に言って早く終わらせてもらったから」
「全く」

何て子なんでしょうね。そう言って笑ったはじめが、かっこよかった。

「着替えなかったの?」
「僕は生徒会がありましたから。終わる10分前に来ました」
「そうなんだ」

大変だねって笑えば、本当に大変ですよ。と苦笑いが返ってきた。

「おや?それは…」
「うん。はじめが昨日買ってくれたペンダント」
「付けてくれていたんですか」
「勿論だよ」

私の首についているペンダント。昨日二人で行ったアンティークなお店で買ってもらった。
雫型に整えられた青いガラスがとても綺麗で、とても安かった。
彼はそれを見て、随分と安上がりですね、と笑っていた。

「さて。今日はどうしましょうか?」
「本屋行きたいな」
「じゃあ行きましょうか」
「うん!あ、先にはじめのテニスバック置きに行かなきゃね」
「ええ。これを持って歩けと言われても困りますから」

こうして、二人の部活が終わった後にデートをするのが、私達の日課だった。
本屋に行ったり、喫茶店に行ったり、アンティークなお店に行ったり。
そして彼が私の家まで送ってくれて、私達の幸せな一時が終わる。








そんな日々が続くと思っていた。









いつものように送ってもらって、家に帰ってきた時だった。
いつもはキッチンで料理をしているはずの母が、玄関先で私を待っていた。

。よく聞きなさい」
「な、何?」






「来週の月曜日、家族全員で引っ越すからね」






ドクン、ドクン、ど心臓の音が聞こえる。
手の平が汗をかいている事も、頭が鈍器で殴られたようにズキズキする事も、感じていた。
目の前にいる母が歪んで見える。

「………え?」
「ほら、お父さんが転勤するって聞いていたでしょ?来週になったのよ」
「…そ……な、こと…」
「お母さんもね、この際転職しようかなって。お兄ちゃんももう大学生でしょう?」

ももうすぐ進級だから。ね?そんな言葉は、もう耳には入らなかった。
ただ、引っ越す。そんな言葉しか、頭になかった。
後ろでガチャ、とドアが開いた音ではっと我に返り、後ろを振り返った。
兄が帰ってきた。

「ただいま…っと。何だ、まだこんなところにいるのか。俺が入れねーだろ」
「……お兄ちゃんは…聞いたの…?」
「ん?ああ、引っ越しの事か?俺はこの機に一人暮らしでもしようかなってな」
「じゃ、じゃあ私も一人暮らししたい!」
「馬鹿言え。お前は中学生だぜ?まだ成人してねーの」
「…じゃあ寮!寮に行く!」
「お前なぁ。家の方が学校から近いだろ」
「でも…ッ」
「…つらいのは分かる。だけど決まった事なんだ。





……諦めろ」






そう言い、母と一緒にキッチンへ向かった兄の背中を、私はただ見つめる事しか出来なかった。
胸元にかけられたペンダントが、その時凄く重たく感じた。








駅の近くにある、大きな公園に、私達はいた。
公園の真ん中に大きな噴水があって、よく小さい子供が遊びに来る、有名な公園。
今日は少し遠出をして、駅の近くにある書店、喫茶店に行ったその帰りだった。
結局今日まで引っ越しの事を、はじめには話していない。友達には…もう言った。
明日は朝の電車に乗って、三つ先の家まで行く。

話せる日は、今日だけ。

赤く染まっていく夕日が綺麗だった。

「…はじめ」
「はい?」

隣を見ると、優しい顔をしたはじめ。
いつだって私をそんな顔で見ていてくれた。
彼のその顔が好きで好きでたまらなくて、でもその顔も今日で最後。

胸が、痛い。

?」

私の名前を呼ぶこの声も、姿も、全部今日で終わり。
気を抜いちゃ涙が出そうで、彼の手をぎゅっと握った。
彼はビックリした顔で、それでもぎゅっと握り返してくれた。

「どうしたんです?変ですね」
「……ごめんね」

情けない。声が小さくなってしまったし、何より震えてしまった。
はじめは聞き取れなかったのか、え?と聞き返した。
私は俯いていた顔を上げ、彼を見上げた。

「ううん。…ごめん。今日は…一人で帰るね…」
「え?」
「…ごめんね。でも…」
「……分かりました。でもせめて公園の入り口まで、送らせてください」
「…うん」

よろよろと重い腰を上げ、ぎゅっとはじめの手を強く握った。
はじめは何も言わずに、黙って強く握り返してくれた。
公園の入り口までわずかな距離を、ゆっくりと時間をかけて歩いた。

本当はこのままずっといたかった。だけどそれは叶わない。

公園の入り口まで来た。すっと握っていた手の力を抜くと、彼も抜いた。
彼から二歩ほど遠ざかり、彼と向き合った。





「…じゃあ、バイバイ」



「……ええ。さようなら」





途端、涙が出てきそうになって、彼に背中を向けた。
彼の視線が背中に当たっているのを感じながら、一人涙を流して、私は走った。
ごめんなさい。そう小さく言葉を零しながら、兎に角私は走った。
いつの間にか服から出ていたペンダントを、強く握り締めていた。















辺りはスーツを着ている男性から女性。通学する学生。
到着時刻板では、あと五分で電車がつくと表示されていた。
ふと足元を見ると、ルドルフの制服ではない、チェックの入ったスカート。ブレザーも違う。
時計を見ると、朝練が始まる頃だろうか。
もう私には関係ない事だ。もう私は……氷帝生なのだから。

微かに聞こえる電車が近付いてきている音。

ぞろぞろと人が増え始めてきたホーム。



空を仰ぐと、ムカつくほど青空で。



辺りを見回すと、ムカつくほど人がいて。



でも私の隣には、彼がいない。




電車が私の目の前を通り、人々の髪や服を揺らしたが、次第にそれも小さくなっていく。
シュー、とドアが開く音。降りてくる人が横切り、待っていた人達が次々に乗り込んでいく。
流れにそって、私も電車の中へ乗った。
まだ朝が早い所為か、人はいなくて、私は入り口付近に立った。



!」


「……え?」



彼の声が聞こえた気がしたが、それは出発するベルの合図によって分からなかった。
また音を立てながらドアが閉まっていく中、必死にホームを見渡した。




彼はいなかった。





「…ぅ…ひっく…は、じめッ」




誰もいないのをいい事に、私は声を上げて泣いた。





一人で、ボロボロと、もう会えない事に、もっともっと泣いた。
Witten by Yukino Enka.

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