ma cherie
いやいやいやいやいやいやいや。そんな訳あるわけがないって。でも今のこの状況はまさしくそんな訳ない状態で、え、でも実際問題そんな事はこの人に出来るわけがないし、じゃあこれは虚しい夢?夢で終わっちゃうのか?
「…と、悶々と考えている所悪いけど、食べるの?食べないの?」
「……いただきます」
ほら、と差し出された物体を返答に詰まりながらも受け取ってしまったが、食べる気にはなれず、むしろ出来るものなら今すぐ捨てたい物だった。
さっき来たかつて全国を目指した仲間達からもらった見舞いの品であるリンゴが確実になくなっている事から、今手元にあるものはリンゴだったもの(もはや過去形だ)に違いない。
ここに火の元はないはずなのに、何故こんなにも黒くなっているんだ。心なしか焦げ臭いような異臭もするのはきっと気のせいではないはず。
ちらりと彼女に視線を投げかけると、彼女は僕の視線に気付かずにしゃりしゃりとそれを食べていた。(そもそもこんな形状からしゃりしゃりと音が聞こえてくる時点でまず非現実的だ)
「…貴方の腕は相変わらずですね」
「煩い。これでも少しは上達した方よ」
「これで?」
「あの時よりはまだ食べれる状態でしょう?」
忘れもしない中学の調理実習の時だ。こうして切るだけの作業だったはずなのに、確かに彼女はこれ以上の毒性物質を製造した記憶がある。死者が出なかった事が奇跡だ。
それと比べると、確かに今手元にあるこれは食べられる範囲だろう。色が違って少し臭うだけだ。単に切っただけなのだし、それそのものが変わったわけじゃない。
だけどどうしても食べる気になれず、小皿をぎゅっと握った。
「大体、何でがここにいるんですか」
「いちゃいけないの」
「いえ…その、貴方が来るとは思わなかったので…」
「それはそうよね」
私もついこの間まではのんびりとイギリスに滞在中だったし。と平然と言ってのける彼女はやはり昔と変わりなく、出てくる笑みを慌てて殺す。
彼女はむっと顔を顰めて、しかし何も言わずにしゃりしゃりとリンゴを食べ続けた。
「私の記憶では有名会社のエリートコースに入ったと聞いたわ」
「ええ、一度は入りましたよ」
「なのになんでここに寝るのよ、この馬鹿」
彼女の棘のある言葉と共に、手に持っていたナイフがキラリと光った気がした。これでそのまま刺し殺されてもおかしくはない。彼女の放つ殺意が物語っている。
慌てて僕は作り笑いを浮かべようとしたが、引きつった笑みしか浮かべられなかった。
「あんたの所為で、これまでの予定が一気に狂ったじゃない」
「それは…すみません」
「そんな簡単に謝らないでよ。気持ち悪い」
心配してくれているのかしていないのか。バッサリとそう切り捨てた彼女の言葉に、昔と変わらないのではなく更に磨きがかかった事を実感した。
もう食べ終えたのか、小皿を机に置いた後、持って来たタオルで上品に手を拭く。
その動作にそう言えば令嬢だったを思い出す。(けれど家出しているが)
「久しぶりに帰国でもしてみたら、赤澤を筆頭に一部を除いてみんなが縋るような目で私を出迎えてくれた時は驚いたわよ。裕太なんか説明途中に号泣していたわ」
一瞬にしてその光景が思い浮かぶ。特に裕太が泣いているなんて、実際ここに初めて見舞いに来た日は「観月さんが死ぬ」なんて言いながら泣いていた。
一部とは絶対に木更津だ。きっとその場には何でもないように振舞って皆を宥めさせたに違いない。何が何でも、皆の前では絶対に己の不安事は言わぬだろう。それが、今まで見てきた中での木更津淳だ。
…なんて、まるで死ぬ前の老人みたいに昔を思い出していても仕方がない。その前に今この部屋にいる幼馴染の方が問題だ。
「慌てて病院に駆けつけたら本人は至ってケロリとした表情で出迎えて、大した事じゃないと安心した途端に発作なんか起こって」
そうだ。情けない事に、2年ぶりに会う彼女の前で、それも彼女がこの病室に入った途端に例の発作が起こった。
あの時彼女がナースコールを押してくれたお陰で、こうして平然と何事もなかったかのようにゆっくりと話していられるのだが。
「…ほんと、取り乱した私が馬鹿みたい…」
そうしてくしゃりと綺麗なウェーブのかかった前髪を掻き揚げる彼女の顔は、怒りと悲しみが混ざっているようだった。
言っている事は棘のある言葉でも、彼女の場合顔に本心が出る事にきっと彼女は気付いてないだろう。
「…すみません、」
「……本当にね。仮にも私の婚約者なのだから、しっかりしてもらわないと私の面子ってものもあるのよ」
「はは。すみま、せん」
「…あーもーっ!だから死にそうな顔で謝られたって困るのよ!」
そう言って彼女はぐしゃぐしゃと自慢の髪を掻き毟った後、僕の手の中の小皿から一つ酸化したリンゴを口に入れた。(そもそも元があれだから酸化したかとうがも分からないが、彼女の口からしゃりっとした音が聞こえなかった)
僕も一瞬躊躇するが今度こそ手にとって恐る恐るそれを口に含む。
少ししょっぱいがそれ以外は普通のリンゴの味と変わらない事に驚きを隠せない。
「………私だって、あの話を聞いた時は足元を掬われたような気分だったわ」
しかしそれよりもなによりも、その後ポツリと零したのその言葉に、僕は目を丸くさせてしまった。
「………」
「だ、だからってなにもはじめを心配したわけじゃないわよ!ただ先にあんたに死なれたら困るのは私なの!」
さっと顔を赤くさせる。きっと自分が言った言葉に恥ずかしさを覚えたのだろう。
―――全く。なんてかわいい人なんだ。
「…僕もね、。走馬灯が走る時は、きっとしか思い出さないのだと思います」
「な、何を縁起でもない事を…」
「初めて病名を聞いた時、最初に思った事はきっとは悲しむに違いないと思ったんです」
「……」
「貴方の事ですから、きっと言ったって強がるのでしょうけど」
実際に口に出して告げると、一瞬言葉に詰まって、だけどすぐに何事もなかったかのように「そう」としか返さなかった。
後で聞いた話だが、どうやらその後は一人で泣いてくれていたらしい。本人に言うと思い切り否定されるだろうが。
「そういうが、僕は好きです」
「ば…っ!!」
口をパクパクと上下にさせるは可愛い。クスクスと笑うと顔を真っ赤にさせたがさっと、今度は怒りの色に変えた。
そうして無言で僕の額を小突いてくる。
「っつ…!」
「馬鹿!!あんたなんかやっぱり死んだ方がいいわよ!!」
小突かれた所がズキズキと痛む。きっと鏡で見たら赤くなっているだろう。
彼女はそれだけすると、見舞いの花を活けている花瓶の水を替えてくるとだけ伝えてさっさと病室から出て行ってしまった。
その後方を見送りながら、少しいじりすぎたか、と後悔。
ma cherie
Witten by Yukino Enka.
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